奈無流(ナムル)
- ナムル皇帝 
- 2023年6月16日
- 読了時間: 2分
更新日:2023年9月28日
812~888
麿帝国の西セルフガバーンエリアの祭野(さいや)村の村長。
村長としての努めは全く果たさないことで有名だった。
ただ、村の酒場にはよく出没し意見を汲み取り政治に反映させていたので、
「神輿の上のナムル」と呼ばれていた。
859年に麿帝国よりダニルダニ諸島からの襲来する海賊討伐を名目に
村民の動員(サキッチョ・モリ)と追加徴税のお触れが出た。
しかし、
ⅰ)各村の男子の5割徴兵
ⅱ)年貢税率を「5公5民」から「8公2民」に大幅増税
と到底受け入れられる内容ではなかった。
連鎖的に各ガバーンエリアから反乱が発生。
奈無流も村民に担ぎ上げられ蜂起。
反乱に加わった。(859年:ガバーン怒りの乱)
村の酒場のノリで各村長と酒を飲んでいた奈無流はいつの間にか
そのコミュ力で反乱軍盟主に担ぎ上げられた。
そのため、一般的に利害不一致で権力争いの起こりやすい連合体ではあったが一致団結して麿帝国を滅ぼすことができた。
860年にはセルフガバーン連邦が奈無流を盟主として発足。
862年には西部の華犠村にダニルダニ諸島から海賊が襲来。瞬く間に皆殺しにされた。
(862年:ダニの来寇)
海岸には多くの村民の遺体がわざと花を刺された状態で横たわっており、
以降「華犠村の華やかな犠牲を忘れるな」ということで「華犠同盟連合」と改称。
奈無流は王位に就くことを皆から望まれたが
「もうこれ以上の高い神輿には乗りたくない。フラットに皆と酒を飲める気がしない。」
と盟主のまま据え置かれた。ここから数年定期的に来寇が繰り返され、
878年に遂にダニルダニ全軍が襲来。
多くの村が皆殺しにされるものの、辛くも勝利をもぎ取り撃退に成功した。
(878年:民族浄化戦争)
勝利した祭典で帝位につくことを迫られるも拒否。祭野村に逃げ出し、一村民として余生を生きたという。
廷臣たちは息子の燃奴脂(モヤシ)に帝位につくことを要求し、燃奴脂は了承。
国名を「華犠国」とし、
父の奈無流を初代皇帝に封じ、879年に形式上二代目として帝位に就いた。
(このため、実際には帝位には就いていないものの、ナムル皇帝と呼ばれている。)
コラム:スポンジ・ナム
「わかった。」それが彼の酒場での口癖。
そしてそれを反映させる優秀な部下がいたからこそ、
彼は華犠国の初代として今に名を留めていると言っても過言ではない。
でなければただのせんべろ大好きおじさん程度で終わっていたであろう。
特に黒故謝は無理難題を反映させるために頑張った。
たくさんの業界への根回し、飲み会etc・・彼の良い面だけを形どった子どもに今も人気な「スポンジ・ナム」。
その影で一人の男が円形脱毛になったことは大人の皆さんは察してあげましょう。

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