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ヤーレン・ソーラン

  • 執筆者の写真: ナムル皇帝
    ナムル皇帝
  • 2023年5月19日
  • 読了時間: 2分

1478~1533

「踊り手が英雄になったっていいじゃないか。」


彼が住むドレークアイランド。

皆が物心つく頃には海で海賊になる島。だが彼はカナヅチだった。故に周りからは「意気地なし」と呼ばれていたが彼はめげずにナルコを持って毎日校舎の片隅でヲタ芸というか、北の打ち師が踊りそうな踊りを踊っていたという。周りからはそれなんの踊りだよとバカにされていたが、彼が踊るとなんかATフィールドのようなものが発生し、圧倒的な武力を持つことがわかった。


当時、目の上のたんこぶであったイストラグンド大陸沿岸部からは

財力を武器に傭兵を常備し常に戦線拡大していたマカタリズム連邦の襲撃が止まない時代であった。傭兵たちは規律なく、民家を襲い財宝食糧を奪っていったのでドレークアイランドの住民は生活に困窮していた。そんなこと我関せずと踊っていたヤーレンであったが


地元のおっちゃんの原動(ゲンドウ)博士がヤーレンの力を活用し、

マカタリズム連邦を打ち負かすことを提案。「まぁ地元のためならやっか」と、とりあえず港にヤーレンは出た。何で一人で踊っているんだアイツはとバカにされ、

そして遠巻きに弓を射られたが、やっぱATフィールドのようなものが矢を滅した。

そして、マカタリズム連邦の大船団を一瞬で滅ぼした。

(1494年:ヤーレンソーランの逆虐殺)


以降彼は玉座に上げられ、ドレークアイランドの王となった。レーヤン朝の開始である。

踊りはヲタ芸だと対外的にダサいので「ヤーレンソーラン」と名付けられ

国家の国踊(こくよう)として扱われるようになったのだ。


コラム:陰キャの王ヤーレン・ソーラン

彼は生涯踊りに命をかけ、政治を顧みなかったという。

また、後継者も作らなかった。そのため影では陰キャと呼ばれていた。

しかし、圧倒的な武力の前に生きている内は反乱謀反は起きなかった。

長く30年あまりの平和をもたらし死去した後、後継者争いが起こった。

元々は海賊たちの集まりであり、血みどろの争いが起こったのである。

(1534年:レーヤン内戦)


以降、代替わりの度に戦争が行われたが、それがドレークアイランドの対外的な領土拡大を抑止したと言われている。代替わりの度に戦争が起きるので3代目:ケンカ・ダイスキの死後以降は王志願者同士の一騎打ちで王を決めるようになった。(死願者達の頂上決闘)


強きものが上に立つというルールが徹底化されたことで、

子ども達は若いうちから武術を磨くようになり、島内には闘技場が多く設けられ、

戦争にめっぽう強い海洋国家としてレーヤン朝は認知されていく。

 
 
 

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