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イイチコ・カタパルト

  • 執筆者の写真: ナムル皇帝
    ナムル皇帝
  • 2023年3月27日
  • 読了時間: 2分

1767~1840

「天下は、俺が大義を成すためにある。」

1816年7月25日のアンティザン広場の民衆の前で語った名言である。

彼は上述の通り、世界を揺るがした人物であったと言えよう。生まれはイストラグンド大陸の「ブーランジェ公国」。

父ドラパルトはブーランジェ公国の一領主であったが、辺境の貴族であり、貧しい生活であった。


普段は農村の子どもと遊び、学び、市井の暮らしを知りながら幼少期を過ごした。

子どもの頃から農村の年の近い子どもを連れて、しばしば周辺の山賊、湖賊を打ち負かし、

自領の民衆の信頼厚く、「下町のカタパルト」と呼ばれていた。


1790年国中のお菓子を独り占めした「パティシェ・ブーシェ」国王のシュガー緊縮財政に

国民は生命線を奪われたことに憤慨し、「アプランティ達の暴動」が起きる。

(アプランティは「見習い」。王宮菓子が全て没収されたことを伝え、民衆暴動に至った。)

カタパルトも暴動に参加し、国家の転覆に加味した。


そしてブーランジェ公国は「アンチモ・ナーク」という民衆政権に変わった。

世界は危険を感じた華犠国を中心とし「お菓子反対大同盟」を結成した。

(お菓子はブーランジェ人への隠語。お菓子ばかり食うので蔑称であった。)

カタパルトは「サブレ川防衛戦」にて自領の軍隊のみで同盟軍を打ち負かし、

世に名を馳せた。


その後も華犠国を中心とした第二次、第三次お菓子反対大同盟を打ち負かし、

第四次お菓子反対大同盟の際にはイストラグンド大陸諸国に加え、ダニルダニ諸島、ドレークアイランドも加わった大同盟となり海上封鎖も行われ絶体絶命のピンチを迎えるが、カタパルトは天孫島との交渉に成功し援軍により九死に一生を得る。


その後大同盟は瓦解し、軍事、外交ともに貢献したカタパルトは「アンチモ・ナーク」の総裁となり、世界に「民衆が国家の大事を決める国」を伝播させ、ディシレボクラシーの時代を実質スタートさせた人物として認知されている。


特に「アンティザンの演説」は各大陸の蜂起を促し、「民主化の父」と崇める国家さえある。

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